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持続可能社会とアナトミー

─諷刺の復権

Seibun Satow

 

「未来は如何あるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄つる勿れ。黙々として牛の如く背よ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。汝の現今に播く種はやがて汝の収むべき未来となつて現はるべし」。

夏目漱石1901321日付『日記』

 

1 You're Probably Wondering Why I'm Here

 2008826日、ロシアのドミトリー・アナトリエヴィチ・メドベージェフ大統領は、グルジア領内の南オセチア自治州とアブハジア自治共和国の独立を承認し、英語テレビ局『ロシア・トゥデイ(Russia Today: RT)』とのインタビューに応えて、「新冷戦が起こることも含めて、何も恐れてはいない(We are not afraid of anything, including the prospect of a new Cold War)」と発言している。しかし、「新冷戦」とメドベージェフが口にしながらも、そこには世界を二分するようなイデオロギー性は希薄である。アメリカを中心とする西側陣営と対峙した東側の領袖という冷戦時代の栄光の日々をロシア人に思い起こさせて、ナショナリズムに訴えているにすぎない。それは「憚り様ですが、世話にはなりません」程度の意味である。

 1991年のソ連の解体により、東西冷戦という「イデオロギー・ポリティクス(Ideology Politics)」の時代は幕を閉じる。しかし、これで平和が到来するという素朴な楽観論はすぐに打ち砕かれ、それに代わり、グローバリゼーションが急速に進展する。その明確な定義がないため、論者によってまちまちで、人・カネ・モノ・情報の世界的規模の移動、アメリカ主導による新たな帝国主義、啓蒙主義的理想の進展、議会制民主主義や人権思想が世界に浸透していくプロセスなど千差万別である。いかに劇的に感じられても、グローバリゼーションは90年代に突如として始まったわけでもなく、その起点をいつにするかでも意見が割れる。しかし、少なくとも、90年代からのグローバリゼーションは、WINDOWS95の爆発的な流行を代表とするデジタル技術の急速な進展と普及を背景にし、この点で過去の世界的な拡散現象と根本的に異なっている。それはそうとして、グローバリゼーションも、他の現象同様、光と影の部分があり、また多面的であるため、どこに焦点を合わせるかによって見え方が変わる。

 そうしたグローバリゼーションの一方で、世界各地において体制転換や分離独立の動きが進むと共に、宗教や言語、エスニシティなどに基づくナショナリズムが勃興する。それらはイデオロギー・ポリティクスによって抑圧されていたアイデンティティである。しかし、90年代以降のアイデンティティは「自分とは誰か」ではない。グローバリゼーションを背景にした「自分の居場所はどこか」である。こうした動向を「アイデンティティ・ポリティクス(Identity Politics)」と呼ぶことができよう。

 グローバリセーションの普及とナショナリズムの隆盛は関連している。左翼的イデオロギーの影響力低下とグローバリゼーションへの反発を理由に、アイデンティティ獲得のために、伝統的な価値観への回帰が促されただけではない。新自由主義が経済政策において国際標準化され、グローバリゼーションを支えるのだが、このいわゆる「小さな政府(Small Government)」論自身が「大きな国家(Large State)」を求めるからである。

 政府を小さくすれば、直観主義的には、国家も小さくなりそうなものだが、現実は逆ある。グローバリゼーションにおいては、NGOや地方自治体、多国籍企業の影響力の拡大などによって、国家の役割が相対的に縮小すると見られていたにもかかわらず、むしろ、国家が露出している。国家より上位にあり、それを縛る体制が確立しないままに、グローバリゼーションの進展する国際情勢では、「小さな政府」を選択すれば、必然的に、「大きな国家」を招いてしまう。

 実際、「小さな政府」を主張する政治家も、概して、「大きな国家」の支持者である。新自由主義経済を政策を採用したロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャー、中曽根康弘は、明らかに、愛国心を扇動し、軍事力を偏愛して、覇権を狙う大国主義を志向している。また、最近で言うと、親米的で、反福祉国家の立場が鮮明なシルヴィオ・ベルルスコーニやニコラ・サルコジがそうであるし、小泉純一郎や安倍晋三といった民営化推進の首相や経団連の御手洗富士雄会長も同様である。

 政府による規制の緩和は民間の経済活動を活性化させるという通説が流布している。しかし、グローバリゼーションの中で、企業が生き残るのに、国際市場で優位に立たなければならない。各国は外資を呼びこむために、規制を緩めて、税制等で優遇を用意している。多国籍企業や世界企業は、自らの利益を基本的には優先して活動を続けるが、国家はそれをいかに自国へと導き出すかを腐心する。日本を代表する自動車産業であるが、トヨタとホンダを除けば、海外企業の子会社である。他にも、多くの企業にも外資が出資している。自国の経済を活気づけるには、カネの国籍を云々している場合ではない。自国の企業が国際市場を席巻すれば、政府は経済成長と生活水準の維持・拡充が期待できると考える。そのために、政府や地方自治体、メディア、大学、シンクタンクは企業に協力しなければならない。

 国内市場において、「自然独占(Natural Monopoly)」は「市場の失敗(Market Failure)」の一例である。これは新規参入が発生せず、自然と独占に陥ってしまう状態であり、電力事業などのように、初期投資が莫大だったり、特殊なノウハウが必要だったりする産業で生じる。自然独占は選択の自由という資本主義の前提に反しているから、それを放置することはその体制の正当性を脅かす。

 けれども、利害調整の難しい多国間ではなく、二国間で自由貿易協定がしばしば結ばれるように、国際市場において、WTOがあると言っても、グローバル・ガバメントどころか、グローバル・ガバナンスさえない以上、自然独占は違法とはされていない。国家より上位にあり、それを取り締まる機構がない現状では、市場の失敗と認定し、処罰する術がない。事実、WTOのドーハ・ラウンドは、20087月、土壇場で決裂し、七年目に入っていた交渉は目標としていた年内合意が絶望視されている。

 こうしたトマス・ホッブズ流の自然状態では、自国に拠点を置く企業が自然独占を獲得できるように、国家は積極的に政策を講じなければならない。企業間の競争は、実は、国家間の代理戦争である。小さな政府は大きな企業をもたらし、それは大きな国家を招く。判断基準は、結局、すべて国家にあるということになる。グローバル・スタンダードは公正中立ではなく、この国家間競争の勝者によって決定される。

 その上で、グローバリズムの推進者は、自然独占を達成するために、「大きな政府」は間違っていると途上国に吹きこむ。しかし、自由貿易の効用は経済学的に認められるとしても、先進国は農業品目に対する高関税と国内農家への補助金などによって、途上国からの安い輸入品を事実上閉め出している。農民票にそっぽを向かれるのを怖れて、EUの政治家はアフリカぁら格安のミルクを入れようとしない。自国にとって都合のいい部分だけ自由にしているだけで、それは途上国の独裁体制における情報統制と似通っている。

 しかも、巨大な多国籍企業や世界企業の中には、国を上回る経済規模のものも少なくない。今、アメリカはイランと緊張関係にあるが、小売店チェーンのウォルマートはかの産油国のよりも経済規模が大きい。こうした企業は、公正な競争が阻害されていると訴える主に本社を置く国家の後押しによって、さらにその立場を有利にする。ホッブズの主張通り、万人の万人に対する闘争状態は強力なパワーによる自然独占によって終決する。

 しかし、グローバリゼーションの進展は相互依存を浸透させるため、大きな国家は資本主義体制を脅かす。大きな国家、すなわち国家主義は国家を国家理性に基づく人格的な比喩として捉え、すべての問題を安全保障に翻訳して解釈する思考である。見逃せない矛盾がここにある。国家間の相互依存性によって世界の構造が変化する現代において、「国益」を安易に使うことはできない。新自由主義的経済政策は、個人主義的傾向が強いため、国内の一体化を図る目的で、為政者はナショナリズムを利用する。ところが、ナショナリズムは感情的であり、制御不能に陥りやすい。外国との間で何らかの摩擦が生じた際、相互依存を考慮して、両国政府は穏便に収めようとする。けれども、自称愛国者たちはそんな政府を弱腰と罵る。政府は世論を意識し、相手国に強気な態度を示さざるを得ない。緊張状態が続けば、外資は逃げ出し、観光客の足は遠のき、経済に悪影響が出てしまう。

 政治家はナショナリズムに訴えるのではなく、相互依存を前提として諸外国に対する理解を促進させるべきであろう。政治判断に真に必要なのは熟慮であるけれども、無関心と熱狂という両極端な世論の反応の間で揺れ動く。政治家は、今日のメディアもそうであるが、つねにストア主義者たれねばならぬのであって、世論を熟慮へと促すことを心がけるべきである。

 また、グローバリゼーションは合衆国に富をもたらしたが、同時に、国内の人口構成を急激に変え、さまざまな対立を激化させている。これに伴うコストがグローバリゼーションによる経済的利益とつりあうのかは定かでない。

 新自由主義経済を進める政治家は、経済面だけでなく、アイデンティティの問題でも大きな国家を必要とする。冷静な判断を見失わせるために、彼らはそれを持ち出す。

 小さな政府は、労働者の権利の制限や雇用条件の抑制といった競争力を重視する政策をとる以上、経済格差を生み出さざるをえない。程度の差こそあれ、その方針を採る各国で共通して見られる。これを支持する政財界人は、景気が浮揚すれば、格差の拡大を解消できると主張する。しかし、好況になって、企業が正社員を募集しようとする際、新卒者を対象とするのであって、派遣などの非正規雇用を正規雇用に変更することは少数にとどまる。一旦ワーキングプアに陥ると、自助努力だけで抜け出すことは極めて難しい。彼らの多くは好き好んでなったわけではなく、不況下に企業が求人を抑えたために、就職できず、非正規雇用で食いつなぐほかなくなっている。格差は搾取を言い替えたにすぎない。

 日本は、この点で、極めて深刻である。国際競争力を高めるために、人件費の抑制を官民上げて推進する。競争に負けて、企業が倒産すれば元も子もないのだから、失業よりましだろうと非正規雇用の領域が拡大される。どうせ少子高齢化で国内市場は縮小する以上、内需は捨てて、購買力のある北米や欧州、新興国向けの輸出を強化した方がいい。大企業は中小企業、さらに一般労働者にしわを寄せ、生き残るためにはやむを得ないと言い訳をしている。経済では、思わぬ事態に対応するため、将来に向けて選択肢をどれだけ残せるかは重要であるが、経営者は目先の利益にとらわれ、それを無視する。ところが、原材料価格の高騰した際、当該企業は自らの見通しの甘さを認めず、価格転嫁しにくいとして、下請け中小企業、労働者にその負担を押しつけ、高利益を維持しようとする。何らかの事情により、「二浪一留」を超えて社会に出なければならなくなった若者は、特に「就職氷河期」と呼ばれる時期から、企業により「フリーター」として食い物にされ、使い捨てられる。変化が激しい現代社会は、生涯に亘って学習を続ける学習社会であり、むしろ、さまざまな経歴の人たちに学習機会を増やすべきなのに、日本社会はそれをよくわかっていない。

 OECDは、200899日、「図表で見る教育08年版」を発表しているが、日本の05年の教育予算の対国内総生産比は3.4%(前年比0.1ポイント減)で、それは加盟国中最低である。政府の支出全体に占める教育支出の割合はOECD平均の13.2%を大きく下回る9.5%、教育支出では、私費割合がOECD平均14.5%に対して31.4%と突出して高く、しかも、公費と私費を足した教育支出の対GDP比も4.9%で、OECD平均の5.8%と開いている。 OECDは「他国では教育支出が急上昇しているが、日本は教育以外の分野を選んで投資している。将来に向け教育にどう戦略的に投資するかが日本の課題だ」と指摘している。教育予算をOECD平均並みにする数値目標を教育振興基本計画を7月に閣議決定したものの、財務省が反発し、結局、見送られている。財務省は、今回の結果について、「日本の子どもの割合はデータがある25カ国中最下位。1人当たりの教育予算は英米など主要国とほぼ変わらない」と聞く耳を持たない。安倍政権は教育改革を進めたが、それは「口は出すが、カネを出さない」という床屋談義を政策にした最悪のものでしかない。

 世界企業であるなら、優秀な人材確保のために、社内の公用語を英語にするベなのだが、経営者は依然として日本語で国際競争力云々を口にしている。日銀の総裁候補でさえ、名前が挙がってから英語の個人レッスンを受けにいく体たらくである。この日銀総裁のポストもでさえ、長らく、官僚に戴き立ちさせるだけの天下りの一つと扱われてきたのだから恐れいる。フリーターとエグゼクティヴを分かつのは、能力ではなく、運だけと言っても過言ではない。安易な労働市場の流動化は経済を活性させるどころか、貧富の格差を拡大させ、長年に亘って受け継がれてきたスキルを途絶えさせて、経済の基盤事態を脆弱にさせている。給料の上がらない実感なき経済成長は、じっくりとファームで新人を育てることなく、札びらで有名選手をかき集めたチームが優勝したようなものである。所得が増えず、おまけに、年金問題が端的に示している通り、お先真っ暗で、物を買ってられない。購買力がないのだから、物価は下がる。それに対処するため、非正規雇用を前提としたビジネス・モデルが常態化し、さらに状況は悪化する。特別の技能を必要としない仕事でかろうじて生き延びてきた人たちも少なくない。ここまできてしまうと、たんなる規制の強化では問題解決にはつながらない。労働力資源を再検証し、オランダで採用されているワーク・シェアリングの実施など制度設計から見直さなければならない。しかし、そうした動きは政財界から見られない。

 こうしたカラクリが明らかになると、低所得者層から反発が起こるが、それを避けるように、アントニオ・グラムシの批判する「受動的革命」を用いて、為政者は新たなアイデンティティを人々に与え、その政策を納得させる。

 イギリスの思想家スチュアート・ホールはサッチャリズム受容の過程を「受動的革命」を用いて、1996年3月に来日した際、シンポジウム『カルチュラル・スタディーズとの対話』の基調講演で、簡潔に述べている。

 戦後、英国は社会民主主義とケインズ主義的な福祉国家体制の和解が左右両派の拮抗という姿で現われていたが、サッチャリズムはその枠組みの攻撃として登場している。彼女は支持基盤を伝統的な保守層や左派のインテリではなく、ベンジャミン・ディズレーリが「ジンゴイズム(Jingoism)」に訴えたときと同様、一般大衆に照準を合わせる。不安や閉塞感、アイデンティティの喪失にある彼らに諸々の敵対性を散りばめた英国的なファンタジーを通じて、自己像を与えている。言ってみれば、サッチャリズムは政治・経済の変革以上に、このアイデンティティの提供により、本来、最もその恩恵を受けられないはずの一般大衆から支持される。

 複雑化した社会において、実際のアイデンティティは複合的であるけれども、一元的なアイデンティティを示すことで、体制変革に参加しているという錯覚を与え、受動的であるにもかかわらず、「革命」なのだという意識が生まれている。この「受動的革命」は、前述した新自由主義の国家主義的性質があるため、経済や政治の変革が反動性や不寛容と結びつき、フォークランド紛争や北アイルランド問題を筆頭に、偏狭なナショナリズムを推進する。

 さらに、一般大衆の間に期待と希望をつくり出しているため、サッチャー政権を批判しようとすると、彼らによって市民的・メディア的な強制力が働き、その声はかき消される。その結果、支配層が意のままにでき、流動化のないピラミッド型の秩序社会が形成されてしまう。 誰かが「それって、おかしくない?」と反論しても、政権党はこれが民意だと突っぱね、いつまでたっても貧困から抜け出せないのは、すべて自己責任という社会的空気が充満する。欺瞞に社会が気づき、ようやく本質的議論が始まるのは、高支持率に支えられたその政権が終わってしばらくしてからである。

 サッチャリズムには見えすいた矛盾がある。「小さい政府」を掲げながら、フォークランド紛争で膨大な軍事費を使い、また、市場原理という個人主義を促進させる一方で、伝統的な家族制度という集団主義を擁護している。一貫性のある理論をそこに見出すことはできない。しかし、ナショナリズムとはそういうものである。とても思想とは言えないような場当たり的で粗雑な通俗思考こそがナショナリズムの特徴であり、それが、むしろ、強みである。

 ナショナリズムの歴史・分類・定義についてはこれまでに数多くの考察がなされている。言うまでもなく、文化人類学的にも、分子生物学的にも、近代の国民国家が立脚する「国民」はフィクションにすぎない。この国民はあくまでも政治的共同体の表象であって、文化人類学的な「民族」とは重ならない場合が多い。

 その外部から見れば、何を規範に共同体が形成されているのか曖昧であり、率直に言って、主観主義的である。この共同体は、根拠が明確ではないため、きっかけがあれば、さらに分裂する可能性を孕んでいる。むしろ、外から見て規範が不明確であるがゆえに、それを固有性と主張でき、一体化の意識を抱きやすい。

 ナショナリズムの与えるアイデンティティは物語であるが、主観的に納得できていればそれでよい。他なるものを先に設定し、反動的に、その脅威にさらされている被害者として、すなわちルサンチマンを共有するものとして自らの「国民」を規定する。ナショナリズムは実感を根拠とする主観主意的なアイロニーであって、その感覚がなぜ生じているのかまでは厳密に問うことをしない。根拠は歴史や科学の装いをしながらも、主観主義的な思いつきや思いこみであり、ナショナリズムは「国民」の自己発見の物語である。それは政治思想と呼ぶにはあまりにも粗雑である。しかし、お粗末な主観主義であるからこそ、ナショナリズムは伝播しやすく、つまみ食い的に、他の思想と癒着するのも造作ない。

 このナショナリズムのプロトタイプとしてヨハン・ゴットリープ・フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』が挙げられる。ナポレオン軍による占領下のベルリンでの講演において、フィヒテは、ドイツ語が他の言語よりも優れており、これに基づくドイツの民族国家を建設・拡張すべきであると説いている。

 国民の根拠を言語に置くかどうかはともかく、主観主義的な「国民」に立脚した政治共同体の形成原理としてのナショナリズムは現在に至るまで見られる傾向である。ナショナリズムは通俗化したフィヒテ主義と言ってよい。

 フィヒテは、カントの批判哲学を継承しながらも、現象=物自体や純粋理性=実践理性などの彼の二元主義を斥ける。彼の哲学は「知識学」とも呼ばれるが、非常に主観主義的色彩が強い。カントの物自体は、フィヒテにおいて、道徳的・精神的活動の主体である「自我」に置き換えられる。

 人が最も確実に知りうることは、私自身の存在である。しかし、私は、石ころのような無機物と違い、ただそこにあるわけではない。私が何であるかは、こうありたいと思い、自らをそうつくっていこうとすることに拠る。純粋理性と実践理性の分裂もこの自我の実践により統一される。外部からの何らかの力による作用ではなく、内部から自己自身を限定しながら活動していく道徳的な「自我」こそ重要である。

 私は自分の外に何ものかを生み出し、そこに自分というものを見つけることでのみでしか、自身を知ることができない。人の知識や行為は、自己発見するために、不可欠なものである。知識学は、人間が自らの本質を自覚していく歴史の哲学的な再構成にほかならない。

 こうしたフィヒテの哲学は、フランス革命の理念がもたらした自律的な近代的自我を形而上学的原理に据えるという試みである。しかし、その反面、個々人の自我が集団や共同体へと人格的なアナロジーによって拡大される危険性を持っている。まさに政治的ナショナリズムはこの主観主義の危うさが現われたものである。

 ナショナリズムの克服が不可能であり、それをよい方向へと向け、政治不安の際に利用されないようにすべきだという意見もある。しかし、ナショナリズムは、フィヒテの講演が政治的分裂や占領下という状況でなされたように、混乱や不安、不満が社会に蔓延してきたときに、引っ張り出されるのであって、政治的に安定している時期になど、お呼びではない。また、ナショナリズムを道徳的規範として再検討する企ても提起されている。ただ、それはフィヒテ哲学のブラッシュアップにとどまらざるをえないだろう。

 さらに、ナショナリズムと国家主義の密着は、GWF・ヘーゲル哲学を見ると、明らかになる。ヘーゲルは、フィヒテを批判的に継承し、主観主義から脱却すべく、絶対精神へ一元主義的に総合的・体系的に一切を止揚する。主観的精神は個人的であって、ただ自然にあるだけの自覚もない第一段階であり、労働と教養の契機を通じて第二段階である客観的精神へと発展する。人間はその外部にある法と内部に保持する道徳の間の矛盾や齟齬を現実的に解決しなければならない。

 その統一が「人倫」である。愛情によって結びついている家族は最も基本的な共同的な関係であるが、生活するためには、市民社会が必要となる。けれども、そこは「欲望の体系」であり、家族に見られる自然的人倫を破壊してしまう。ヘーゲルにとって、市民社会はエゴと混乱の支配する世界である。しかし、その分裂は国家によって止揚され、統一される。人間が社会で生きていく際に伴う書矛盾は、国家を通じて、解消されるというわけだ。「結果が始まりと同一であるのは、始まりが終わり(=目的)であるからにほかならない」(ヘーゲル『精神現象学』「序文」)。

 国家こそ人倫の最高段階である。世界史の目的はその中でも最高形態の自由国家を形成していくことであり、それは東洋的専制国家からグレコ=ローマンの共和政を経て、プロシアの君主国家へと至る過程である。このプロシアの件は、彼が熱烈なフランス革命支持者であることを踏まえるなら、「国民国家」と解すべきだろう。ここで、第三段階である絶対精神に達し、完全な自由と共に、自分自身に帰還する。自己はこうして国家と一体化する。ヘーゲルによってフィヒテの「私」もはっきりとした居場所を見出す。

 ドイツ観念論は主にカント主義への批判として形成されている。イマヌエル・カントは二元主義の立場をとり、「市民の政府」を理想的政体として擁護している。一方、フィヒテやヘーゲルはそれを分裂と否定的に捉え、「民族の国家」によって統一しようとしている。しかも、著しく観念的である。すべてが多元的にではなく、人格的な比喩を伴いながら、一元的にイデオロギーに翻訳されて、再構成されている。彼らの哲学は、要約するなら、自己を発見・確認する物語である。

 ナショナリズムは現状依存の思想であるため、時代の影響を受ける。1960年代のアフリカ諸国の独立の際のナショナリズムは「解放のナショナリズム」である。植民地支配から独立すれば何とかなるという極めて楽天的な観測の受動的なナショナリズムに基づき誕生した諸国は、行政組織や産業構造などの未熟さもあいまって、たちまち行き詰ってしまう。決してすべてではないが、90年代以降のナショナリズムは「自立のナショナリズム」である。EUNAFTAなどの自由貿易圏の誕生と域内での戦争の可能性の極小を背景に、カタルーニャャやケベックのナショナリストは独立しても、経済的にやっていけるという裏づけの下で、独立を志向している。また、イタリアの北部やベルギーのフラマン語圏など国内の豊かな地域が、自分たちの税金を有効に使うべきだとして独立運動を活発化させている。解放のナショナリズムがフィヒテ的だとすれば、自立のナショナリズムはヘーゲル的である。しかし、この自立のナショナリズムには政治と経済の分離という前提がある。EUは拡大しているが、自分たちの発言権やアイデンティティが大国の影響力によって埋没してしまうのではないかという危惧から、小国は経済的・通貨的統合にとどめ、政治的・軍事的な一体化には抵抗を示している。20086月、アイルランドで行われた国民投票はリスボン条約批准の否決という結果に終わる。アイルランドの有権者の大半がリスボン条約以上のヴィジョンを持って反対票を投じたわけではない。これに同意したら、EUに自分たちの居場所がなくなるという危機感が少なからぬ動機であろう。

 2000年代に入って、新興諸国の間で大国主義的なナショナリズムが勃興する。資源価格の高騰を背景に急成長したロシアや安い人件費と巨大な市場規模によって発展を続ける中国では、その経済面とは裏腹に、政府は人権を抑圧し、軍事費を増大させ、若年層を中心に民衆の間で狭量で、驕り高ぶったナショナリズムや愛国主義が蔓延している。資源や人口などハード・パワーを武器に国際社会における影響力を強めている以上、それに傾斜するのも当然と言えば当然である。

 ところが、すでに言及した通り、貿易を促進させるには国家間の緊張が増すことはマイナスである。新興諸国にしても、ナショナリズムの危険性を認識していないわけではない。2008年の北京オリンピックの国内メディアへの中国当局の対応はある種のバランスを配慮しようとしている。オリンピックの直前、2008825150分更新の『asahi.com』によると、中国共産党中央宣伝部は国内メディアに「肯定的かつ民族精神を高揚させる記事を書きながらも、過度にあおらないように」という通達を出し、具体的な例として「メダル数に固執したり予測したりする報道をするな」と指示している。国際社会による五輪の評価は中国メディアの報道姿勢やインターネットの書き込みで決まるとして、当局は「特に閉会式直後の報道を重視している」。世論形成に強い影響を持つネット上で獲得メダル数に関心が集まってしまうと、「革命無罪」や「愛国無罪」のときと同様、ナショナリズムが暴発しかねない。 中国の金メダル数がアメリカを抜いた結果について、新華社通信は論評記事で「主催国のメリットを考えなければならず、メダル獲得に狂喜するのではなく、中国スポーツ全体をいかに発展させるかが今後のポイントだ」と提言し、共産主義青年団の機関紙『中国青年報』も「総合的な国力が勝ったわけではない」と理性的な見解を述べている。この点に関してははるかに日本の報道の方が冷静さを欠いている。自国を鼓舞しつつも、ナショナリズムの暴発を抑制し、国際社会にそれ相応の国家として認知させるための配慮がそこには見られる。かつての経験から、ナショナリズムが制御不能に容易に陥ってしまうことを中国共産党は身に沁みている。

 最近は一段落ついたとは言え、日本でもアイデンティティ・ポリティクスが流行し、特に、小泉政権においてサッチャリズム同様の「受動的革命」が起きている。アイデンティティ・ポリティクスの支配を端的に表しているのが物語の氾濫であるが、小栗康平は、『映画を見る眼』において、それについて次のように指摘している。

 

 前の章で、「埋もれ木」は二つの物語がパラレルに進んで行くと書きましたが、映画の中で女子高生たちが作る架空の物語は、劇中劇に近いものです。映画という劇の全体を括るだけの、単純で強い物語は「埋もれ木」にはありません。あるのは映画の登場人物がつくるゲームとしての物語、これはいわば言葉遊びといってもいいものですから、人物そのものを語る物語にはなりません。過去にどんなことがあり、それが今、このことにこうつながっているという因果関係、起泳転結をもたないのです。

 劇中で、「物語は乗りもの。私たちはそれに乗って、ただ生きているだけ」「でも、選べるのかなあ、その乗りものって」「だって、物語は、ことば、だから」といった会話がやりとりされます。もちろん私たちは、言葉だからといって自由に、自分の物語をじっさいの人生の中で生きられるわけではありません。女子高校生のそれはロール・プレー イング・ゲームと同じことです。

 しかしこのゲームは、ゲーム・マスターがいて、ある約束事のもとにという限定があるにしても、物語の展開はプレーヤーのそれぞれにまかされています。映画のンナリオはストーリー・テラーとダイヤローグ・ライターが別な人でも問題ないのに、小説では地の文と会話とを別な人が書くことはない、そういいましたが、このゲームは映画的な物語のつくりに似ている、そういえるかもしれません。ゲームや漫画から小説、映画が作られたりしていることを考えると、こうした手法がさまざまな物語づくりにまで持ち込まれるようになった、そうもいえるでしょうか。

 ここには二つの問題があるように思います。一つは、世の中のいたるところで物語が過剰にあふれていることと関係する事柄です。しばらく前から大ヒットしたパチンコの機種名は「海物語」です。もちろん、パチンコ屋さんでドラマを追うはずもなく、ただCGでつくられた色とりどりの魚が動いているだけのものですが、物語というネーミングになにやらロマンを感じたことも、この機種をヒットさせた原因の一つではあったように思います。

 世の中が物語を欲しがっている、ということなのでしょうか。結婚式の披露宴で流される新郎、新婦のなれそめをつづる映像。ナレーションで語られるのは赤い糸で結ぼれていた運命の出会いです。余興といえばそれまでですが、私などはとうもつき合いきれません。物語化できるほどの起伏のある毎日を生きていない、その裏返しとしての物語。使い古された陳腐な物語はテレビにもあふれ、テレビのコマーシャルの中ででも「物語」が語られています。物語は語るというカタストロフィーを与えてくれますから、ぼんやりした人生だってそれなりの居場所を見いだすことができるということでしょうか。物語は今日、いたるところで消費されています。

 もう一つの問題として、「私」というものが不確かになり、とらえにくくなった、そういう事情もあるのかもしれません。歴史的な現実、社会的な現実といったものに対応するかたちで、私たちは自我のありよう、私のありようをつかみにくくなっています。若い人たちに対して批判的にいわれる社会性、歴史性の欠如といったことも問題でしょうが、私たち自身の中にも、なにに向かって私とはと問いかけてきたのか、その設問のあり方が揺らいでいる、そういう実感があるのではないでしょうか。こうありたい、こうあるべきだという考え方が、もしかしたら数ある問いの一つでしかなかったのではないか、そんな反省です。

 

 最近のゲームは、ジョゼフ・ワインバウムが1966年に開発したELIZA以来のAIの技術を応用しているため、プログラムではなく、プレーヤーに依存する。しかし、それもあくまでデザイナーがプログラミングしたものである。こうしたゲームを含めて、「物語」が社会のあちらこちらで氾濫していると同時に、「私」が捉えにくくなっている。しかし、これは相反する現象ではなく、同じ理由に基づいている。

 こうしたアイデンティティ・ポリティクスの時代における物語の氾濫は、そのジャンルの特徴に起因していると言っても過言ではない。一見したところでは、アイデンティティを求めるのであれば、告白が好まれるように思われる。しかし、そのジャンルでは、いかにして私となりえたかを自己省察を続けながら語る強い「私」がなければならない。他方、物語が与えるアイデンティティは「私の居場所はどこか」である。いわゆる「自分探し」は、物語を通じて、自分の居場所を探し、アイデンティティを確認することである。居場所探しは厳しい社会環境が背景にある。長期不況により、ホームレスやネット難民など居場所を失った人々が急増している。その意味で、物語の流行は短絡的に批難することはできない。物語という文学ジャンルを考察すると、逆に、アイデンティティ・ポリティクスの時代がいかなるものであるかがより顕在化する。

 

2 Advance Romance

 散文フィクションは近代を迎えるにつれ、詩に代わって、文学のメインストリームへと躍り出る。それは、ノースロップ・フライの『批評の解剖』によると、「小説(Novel)」・「ロマンス(Romance)」・「告白(Confession)」・「アナトミー(Anatomy)」の四つに大別される。前の三種類はいずずれも近代以前から社会や時代の影響を受けつつ続いており、小説は近代以降に登場している。この四つのジャンルは、必ずしも、純粋にあるわけではなく、二つないし三つが融合している場合も少なくない。

 第一の近代小説はこの四ジャンルの中で最も新しい。「市民の文学」であり、近代社会を再現する。その意味で、真の主役は近代社会である。代表的な作家としてダニエル・デフォーやヘンリー・フィールディング、ヘンリー・ジェイムズ、ジェイン・オースティンなどが挙げられる。登場人物は等身大で、その性格・心理・志向は社会が表われたものである。社会的仮面、すなわちペルソナを被った普通の人々あるいはほんとうの人間を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるをえなくなる。しかし、反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それによって読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。また、小説の傾向は外向的・個人的であるため、作者には客観的、すなわち公正たらんとする態度でとり扱うことが要求される。エミール・ゾラは、それを実現しようと、自然科学を援用している。この短編形式は、フライ自身による命名ではないけれども、一般的には「スケッチ(Sketch)」と呼ばれている。

 第二のロマンスは「貴族の文学」であり、もう一つの世界を舞台とする。小栗康平の批判する「物語」はこれに当たる。神々の物語である神話とは異なり、近代小説と神話の中間に位置する。歴史小説や時代小説はこのロマンスに属している。ブロンテ姉妹やウォルター・スコットなどが代表的な作家である。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、彼(女)の意識的・無意識的願望の分身、すなわちアバターであって、何かを象徴している。性格よりも個性に関心が向けられ、小説家がこの点で因習的であるのに対し、ロマンス作家は大胆である。作品の傾向は内向的・個人的であり、扱い方は主観的で、願望充足がこめられている。時折、情緒的でさえある。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しく、作者の操り人形にすぎないことも少なくない。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。始まりに終わりが提示され、その目的に向かって話が展開される円環構造をしている。すべての要素はそれを実現するために従属している。作者にとって、曖昧なものや無駄なもの、意に沿わないものは除外され、ただ因果関係が叙述される。ロマンスは読む側に負担が少ないため、最も読者を獲得しやすい。ただ、願望を優先させるあまり、作者が思いこみや思いつきだけで書いてしまうこともあり、ばかばかしいほどの不適切に溢れていても、その願いに共感する読者無批判的に受容する。ロマンスの短編形式は「お話(Tale)」ある。

 第三の告白は「僧侶の文学」であり、「私」や「私というもの」を語る。古くは『ソクラテスの弁明』やアウグスティヌスの『告白』にまで遡るわけだが、これを散文「フィクション」に含めるのは、明確な形式を持っているからである。このジャンルを最も象徴するジャン=ジャック・ルソーの『告白』が示している通り、近代的な告白は「私とは誰か」というアイデンティティ探求の文学である。フランス革命の理念に基づくフィヒテ哲学は、文学的に突きつめれば、告白そのものであって、小説と別の面であるが、これは近代でも衰えることはない。告白は自伝や日記、書簡、伝道なども含み、傾向は内向的・知的である。扱い方は主観的であるが、自己省察を続けながら、哲学や宗教、医学、政治、芸術、科学、法学、倫理などに言及され、ただなんとなくそうしたかったからではなく、告白するにたる理由がそれによって明らかにされる。時に、語り手は悩みを抱えていたり、病んだ心の持ち主だったり、神秘体験をしていたりする。また、文学的資質や修練に乏しい政治家や企業経営者、役人、芸術家などが優れた告白を記すことも稀ではないし、今日では、ブログとして多くの人々が発信している。精神性という点では、近代小説と並んで、高い。「エッセイ(Essay)」は筋のない告白であり、その短編形式である。

 最後のアナトミーは「医者の文学」であり、社会を諷刺する。ただし、それは再現ではなく、記号化した表象である。傾向は外向的・知的であり、扱い方は客観的である。登場人物は、病気や怪我の分類よろしく、社会的・学問的類型に従っている。展開は、ロマンスと違い、因習的ではなく、極めて大胆で、時として天衣無縫や破天荒でさえある。アナトミーは総合的・体系的な知識・認識に基づいているため、読む側の負担が大きく、読者に能動的な姿勢を要求する。書き手には、当然、ジョン・ドライデンのように、夏目漱石ほどの読者を尻込みさせるだけの圧倒的な学識・教養を有していなければならない。短編形式は「会話(Conversation)」や「座談(Talk)」であり、「アネクドート(Anecdote)」は民衆によるその集団的匿名性の作品である。

 アナトミーは、啓蒙の世紀である18世紀に隆盛を迎えている。フランソワ・ラブレーやトマス・モア、デジデリウス・エラスムスらを先人として、先に挙げたジョン・ドライデンだけでなく、ジョナサン・スウィフトやアレキサンダー・ポープ、ヴォルテールなどほとんどの作家がこのジャンルで作品を発表している。また、ロマンスや告白の優れた書き手であるルソーの『エミール』もこれに属している。百科全書を生み出すような知識や教養に対する貪欲な学ぶ姿勢にはアナトミーでなければ応えられない。アナトミーは、実は、「メニッポス的諷刺(Menippean Satire)」の別名である。紀元前3世紀の伝説的哲学者メニッポスに経緯を表して、この文学形式はそう呼ばれている。最も早く知られているのは紀元2世紀のルキアノスの作品であるが、人間が社会で生きている以上、諷刺の歴史自体はおそらく相当の古代にまで遡る。権力に対する民衆による批判は、アネクドートを例にするまでもなく、古今東西、諷刺の形式をとることが少なくない。諷刺は社会的知性の産物である。エスニック・ジョークのような短いものはイメージや観念ですむとしても、諷刺が大がかかりになるとき、解剖学的視点を必要とする。ノースロップ・フライは、『批評の解剖』において、ロバート・バートンの『憂鬱の解剖(The Anatomy of  Melancholy)』(1621)を参照に、「メニッポス的諷刺」を「解剖」と言い替えている。

 これら四つのジャンルは、夏目漱石の作品を例にとるとイメージしやすい。小説は『明暗』、ロマンスは『虞美人草』、告白は『こころ』、アナトミーは『吾輩は猫である』であり、短編形式も、スケッチは『文鳥』、テイルは『漾虚集』、エッセイは『硝子戸の中』、座談は『二百十日』がそれぞれ相当する。

 19世紀、各地で近代社会が出現し始めると、それを再現する近代小説が試行錯誤され、その確立が文学的課題となる。先行するジャンルのロマンスや告白、アナトミーを貪欲に吸収しながら、近代小説は文学のメインストリームの地位を獲得する。チャールズ・ディケンズやウージェーヌ・シューのように、社会的に広く読まれた小説家もいないわけではなかったが、概して、作家も、近代小説は、書き手にしろ、読み手にしろ、新興富裕層や高学歴のエリート層などが中心である。

 その一方で、識字率の向上と出版産業の拡大を背景に、エンターテインメント性の強い「メロドラマ」と呼ぶべき文学作品も民衆の間で流行する。それはエドガー・アラン・ポーの方法論をロマンスで構成したものである。SF、アドベンチャー、サスペンス、ホラー、ミステリー、ファンタジーなどが含まれる。一般的な人気とは裏腹に、大半は近代小説と比べ文学的価値が低いと見なされている。挙げればきりがないけれども、JF・クーパー、アレクサンドル・デュマ、エクトール・アンリ・マロ、ガストン・ルルー、メアリー・シェリー、ルイス・スティーヴンソン、アーサー・コナン・ドイル、ジュール・ヴェルヌ、HG・ウェルズ、ジョゼフ・コンラッドなどが「文学」として評価されるのはまだまだ先のことである。

 ところが、1920年代頃から、近代小説の窮屈さに文学者より異議が申し立てられ始める。パリのアメリカ人こと「失われた世代」を始めとして、今ここではなく、もう一つの社会が志向される。アーネスト・ヘミングウェイの文体はダシール・ハメットのハードボイルドなしには生まれ得ない。第二次世界大戦後、ポップ・カルチャーやカウンター・カルチャー、ポストモダンの流行に伴い、メロドラマの評価は急上昇し、「現代小説(Contemporary Novel)」として認知される。それは、「国民」によって抑圧されたエスニシティやジェンダーなどマイノリティの積極暦な自立と共生の動きとパラレルである。イデオロギー・ポリティクスはもう一つの世界を希求するロマンスを促進させたことも否めない。第三世界は、事実上、東西冷戦で対峙する両陣営の草刈場と化す。しかも、ロマンスの主人公は複数の世界を渡り歩き、最終的に元の世界に戻り、アイデンティティを確認する。新しい装置を備えたメロドラマと比べて、近代小説は読者には地味で、古臭く感じられてしまう。行きづまっていた純文学もその方法をとり入れ、新たな展開を見せる。また、元々、他のメディアと連携することが多かったが、その流れが加速する。アーサー・C・クラーク、フィリップ・K・ディック、スタニスワフ・レム、ギュンター・フラス、ミヒャエル・エンデ、ウンベルト・エーコ、スティーヴン・キングなどの作品が映画化され、そちらの方の評価も高い。

 むろん、文学に限らず、歴史は直線的でもないし、一つの流れだけがあるわけでもない。見方をちょっと変えるだけで、別の歴史像が浮かび上がってくる。歴史には、方法や前提、意図に応じて、多様なシナリオが考えられる。これも一つの見取り図である。

 文学において近代の抑圧を打ち破るのに、作家にとってロマンスは格好のジャンルに思える。現代のロマンスはアイロニーと密接に結びついている。作者は一般的には無意味なものや価値のないものをとり上げ、現実世界を転倒させようとする。この選択・排除が作者の自意識の優越性を満たし、その際、アイロニーが鼻につくこともある。登場人物や因果性、場面設定が突飛であったり、荒唐無稽であったりするが、そうした恣意性こそロマンス作者にとって自意識の優位さを味わう格好の材料である。転換期にはアイロニーが人を惹きつける。価値あるものや意味あるもの、主流のものの権威が揺らぐと、それに盲従していた者は「何だったのか」とシニカルになり、抑圧されていた者は「それ見たことか」と勢いづく。彼らは、アイロニーを使って、「一切は無根拠である」や「すべては無意味だ」とシニカルに攻撃する。アイロニーは主観の転倒された権力意識を満足させる。作者は近代小説の客観的正しさの支配をロマンスの主観的正しさによって転倒する。何が適切であるかを調べて書かないのは作品に対する作者の優位さを確保するためである。作品内の必然性が強ければ、物語の要素は強固につながり、恣意性が著しくなれば、作者の自意識の優位さが強調される。「何でもいい」あるいは「誰でもいい」という気ままな選択は、場合によっては、「何様?」以外の何物でもない。複数の世界──地下世界や魔法の国、異次元といった架空の世界の場合もある──を主人公がさまよい、元の世界に戻り、自分の居場所を見出し、アイデンティティが確認される。この結果、主人公、それ以上に作者の世界に対する自意識の優位性が確かめられる。

 ロマンスの構成や構造は、先に言及したヘーゲルの弁証法と非常に類似している。見えにくくなった因果性も、終わり=目的の円環構造のため、ロマンスは主観的に見えやすくする。しかし、メロドラマの隆盛には、むしろ、時代の直面していた問題に関する誤解が見られる。1970年代、従来の近代的体系が限界にきていることがさまざまな領域で意識されるようになる。それを打開するために、諸学問の間で「越境」や「横断」が唱えられたが、それ自体に意味はない。その理由が線形だけではなく、非線形に立ち向かわなければならなかったにもかかわらず、そこが理解されていなかったからである。ヘーゲルが諸学問を弁証法によって統合しようとしたのとさほど違いはない。学際性が必要なのは明らかであったとしても、ポストモダニズムの一部が典型的であるが、線形の体系を断片化し、それらを横断したところで、非線形の現象に対応できるわけではない。

 イデオロギー・ポリティクスの終焉とアイデンティティ・ポリティクスの到来はこのロマンス人気をさらに強化する。イデオロギーは客観的正しさであったが、アイデンティティは主観的正しさである。その上、ロマンスでは、主人公が複数の世界を彷徨して元に戻るため、たんにアイデンティティを確認するだけでなく、居場所も認知できる。グローバリゼーションはかつてないほど人々を流動化させ、アイデンティティと居場所は重要な関心事となる。アイデンティティ・ポリティクスが蔓延するにつれ、世界各地で、思いこみと思いつきに覆われた一人っ子の一人遊びのような村上春樹のロマンスが受容される。国内でも、ロマンスの主人公よろしくの自分探しが流行し、村上春樹だけでなく、平野啓一郎の『日蝕』(1999)や片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)という愚にもつかないロマンスがベストセラーとなる。ロマンスはいかに広範囲な領域を扱っているように見えて、因果性という観点から見れば、極めて単純であり、不可視的な現実をわかりやすくすることで受け入れられる。

 しかし、これは皮肉な事態である。非線形が顕在化してきたために、近代的な枠組みが怪しくなってきたのに、線形の因果性に基づくロマンスが新しいと見なされている。

 

 ブランド大学を卒業して、ブランド企業に就職して、一見安定した順調な生活を送っているように見える人には、かえってそこはかとない不安が生まれているとぼくは観察している。社会はますます流動的になっている。不確定要素がいや増し、近い将来、自分の環境がどう変わるのか予測がつかない。インテリはいち早く、この時代状況を察知する。しかも、順調に人生を進んでいるゆえに不確実性に対する不安感が強い。

 ところが、その不安をそのままにはしておけない。前にも触れた、わからないことへの耐性の不足だ。

(森毅『そこはかとない不安をついた新興宗教ブーム』)

 

 当然、この矛盾が続くはずもない。自分探しは居場所としての物語の構築である。居場所を見つけると、そこに安住する。隣にはまったく関心を示さず、会話をかわすこともなく、ただ棲み分ける。居場所は独断で決められ、自意識の優位が確認される独善的である、外界には興味がない。内的世界の範囲は著しく狭く、精神的な成長に欠け、静的で、幼稚でさえある。他人による評価には抵抗を覚えるが、勝手に自己診断し、それに自己充足する。その居場所が脅かされると、それを回復しようと躍起になる。しかし、どうしてもできないとわかると、世界全体に対する優位さを獲得しようと、他者を強制的にまきこみ、すべてと心中しようとする。やりきれない犯行の後、「誰でもよかった」と動機を口にするとき、居場所を失ったと感じたために、自分自身に対してそう思い込んでいたのだろうと推察できる。「誰でもいい」のは自分自身である。時に間接自殺の目的で、無関係である人に刃を向けるほど、その無根拠さ・無意味さによって自意識の優位さが実感される。不特定多数の中から気紛れに選べる自分自身はあたかも神である。「善悪なんて所詮人間社会の決まりごとにすぎない」と嘯く。その思考原理は素朴なアイロニーだけであり、知的に怠惰である。頻発する無差別の殺傷事件を「無差別テロ」と呼ぶ者もいる。けれども、テロは体制の動揺ないし転覆を目的とし、実行者は別の立場から英雄視されるものだが、それらにはその特徴がない。しかも、土浦や秋葉原等などあまりにも当該する世界が狭い。1976年3月23日、ポルノ男優の河野光保が操縦するセスナを児玉誉士夫邸に突っ込ませたが、彼の物語の方がはるかに広い。現代社会は変化が激しすぎて、物語を見つけても、それはすぐに破綻し始め、ついていけず、疲れ果ててしまう。物語をつくるのではなく、18世紀の知的シーンが教えてくれるように、変化の意味を読みとる方が実は効果的であるが、そこに踏み出せない。挙げ句、『決壊』などというロマンスが出回る羽目になる。

 

3 Plastic People

 21世紀に入り、2007年のノーベル平和賞が示しているように、「エコロジー・ポリティクス(Ecology Politics)」がアイデンティティ・ポリティクスに取って代わり始める。エコロジー・ポリティクスをロマンスでは根本的に扱えない。エコロジーの問題に向き合うとき、もはやロマンスに慰みを見出している場合ではないと自覚せざるを得なくなる。イデオロギー・ポリティクスやアイデンティティ・ポリティクスも、内部と外部、味方と敵、自己と他者を区別して、それらを囲いこむ。ところが、エコロジー・ポリティクスはそうした区別を無効にする。「近代社会(Modern Society)」から「現代社会(Contemporary Society)」へ移行し、現在、「持続可能社会(Sustainable Society)」が到来しつつある。

 エコロジー・ポリティクスがどれだけ認識の転換を必要としているかは、地球温暖化を例にとってみても、明らかである。

 同じ環境問題でも、地球温暖化は従前の公害問題と異なった特性がある。それはグローバル性、ノンゼロサム・ゲーム性、未来性、カオス性の四つに要約できる。

 第一のグローバル性は被害の空間的規模の拡大を意味する。水俣病やイタイイタイ病、四日市喘息などの公害問題は、一般的に、安全基準の濃度を著しく超えた特定の有害物質によって発生する。そのため、被害が地域に限定されている。もちろん、国際河川の汚染のように、越境する公害問題もあるけれども、世界全体が関与するわけではない。ところが、地球温暖化は全人類を巻きこむ地球規模の問題である。この点から、対策も国際政治の議題となると共に、国際競争力や南北問題など他の国際問題とも関連する。

 第二のノンゼロサム・ゲーム性は、この新たな環境問題には加害者と被害者、ないし勝者と敗者の区別がないということである。公害問題では、加害者側の企業や国と被害者側の地域住民が対立する。一方、地球温暖化は国も企業も住民も加害者であると同時に被害者である。また、地球環境問題は、領土問題などと違い、誰かが得をすれば、別の誰かが損をするゼロサム・ゲームではない。地球環境がよくなれば、日本も、韓国も、ロシアも、中国も恩恵を受ける。国際政治上の地球温暖化問題は、本質的には、ノンゼロサム・ゲームである。なお、「ノンゼロサム・ゲーム性」としたのは、厳密な意味でノンゼロサム・ゲームと見なせない点があることを考慮したからである。

 第三の未来性は影響の非可視性である。公害はすでに相当の被害が顕在化している時に問題となる。その現に起きてしまった悲劇をいかに救済し、今後どのように生かしていくかという議論の道筋が生まれやすい、しかし、地球温暖化は現世代と言うよりも、将来世代に甚大な損害が表面化するだろう潜在的問題である。100年単位の問題であるため、対策をどう進めていけばいいのかを多方面から慎重かつ詳細に検討しなければならない。

 第四のカオス性は無数の不確実性が地球温暖化には潜んでいることを表わしている。公害問題では健康被害とその原因である有毒物質の因果関係が、比較的見えやすい。また、被害も生活の糧の喪失や健康への悪影響など限られている。他方、気候変動問題の複雑さは人間の思考能力の限界を超えているようにさえ思える。「温室効果ガスGreen House Gas: GHG」の代表である二酸化炭素はそれ自体では有害ではない。複雑なメカニズムによって気候を変動し、人間の生活に被害をもたらす。しかも、その影響がどこまで広がるか見当もつかない。

 これらの特性のために、山口光恒は、『環境マネジメント』において、「国際協力の必要性と膨大な対策費用」、「共通だが差異のある責任(Common but differentiated responsibility)」、「通世代間の問題」、「不確実性の下での意思決定」という四つの特徴を挙げている。

 地球温暖化はその影響が地球規模に及ぶため、国際協力が不可欠である。しかし、対策費用が莫大であり、国の経済成長の障害にもなりかねない。自国の負担を可能な限り軽減できれば、理想的にはただ乗りすれば、国民からの不満もなく、自国企業の国際競争力を相対的に高まる。地球温暖化をめぐる国際会議は、京都議定書が端的に示しているように、WTOのラウンドさながらである。

 「共通だが差異のある責任」は気候変動枠組み条約内の文言に使われている。地球温暖化対策はすべての国と地域がその責任を負っているが、歴史を考慮すれば、先進国、次いで旧ソ連や東欧の移行経済国の方が途上国より重い。地球気候変動は、現在主流とされる学説では、産業革命以来の先進国を先頭とする経済発展の過程で排出されてきた温室効果ガスの累積によって発生している。とは言うものの、今後の人口増加率ならびに経済成長率の予測を考えに入れると、温室効果ガスの排出量の伸び率は途上国が優勢となる。長期的には、途上国も、先進国と同様、相応の努力を求められることになる。しかし、それは自国の経済成長の足枷となりかねないため、先進国が率先して義務を果たそうとしない限り、歴史的経緯を理由に、「共通だが差異のある責任」ではないかと途上国は反対する。20087月の洞爺湖サミットは、先進国主導で国際問題を解決する時代の終わりを告げている。これまでGHG削減を進めてきた諸国にとって、さらなる自国内での努力は劇的な効果をあげにくい。そこで先進国による省エネの技術移転やGHGの排出量取引の議論がテーブルの上に乗ることになる。地球温暖化問題は南北問題でもある。

 地球温暖化の時間の単位は、政治や経済とは違い、はるかに長い。まさに百年の計が要る。現世代の不手際や不作為が将来世代に決定的な損害を及ぼしてしまう危険性がある。現世代は将来世代のニーズを満たす能力を損なわないように発展する必要がある。これが持続可能性の原則である。しかし、絶対的な正答などない。考え方によって手段や方法は変わる。地球温暖化は、環境から政治・経済・社会・文化・倫理を総合的・体系的に再構築しなければならない問題である。

 地球温暖化問題には随所に不確実性があり、影響の予測が難しい。100年単位の問題でありながら、あまりにも決めつけて対策を行うと、かえって逆効果となりかねない。不確実性が無数に入りこむため、意思決定が非常に困難である。

 そもそも、非線形科学の代表であるカオス理論は気象研究がその決定的ヒントとなって生まれている。1960年、気象学者のエドワード・ローレンツは、コンピュータ・シミュレーションによる気象モデルの制作中、数値のほんのわずかな入力の違いが大きな計算結果の差を生じさせることに気がつく。この洞察が後にカオス理論へと発展している。数量的な構成や変化の過程が加法性や比例関係に基づいて考えられるシステムを「線形(Linear)」、そうでないものを「非線形(Nonlinear)」と言う。線形システムは線形代数や微分方程式などによって研究され、すでに完成度の高い学問体系が出来上がっている。一方、非線形システムは線形で確立した方法を適用するのが難しく、20世紀半ばまで、ほぼ手つかずの状態が続き、コンピュータの登場により、研究が始まり、1960年代から70年代にかけて本格化する。カオスはその研究過程の中で見出されている。

 カオスは、微細な初期条件の差が時間経過と共に大きく違った結果を生む現象を意味する。この初期値敏感性により、予測は短期的には可能だが、長期的には不可能である。ある種の決定論に従いながらも、不規則な動きをする決定論的非周期性を示す。

 そのため、「地球温暖化問題(Global Warming)」ではなく、「気候変動に関する国際連合枠組み条約(United Nations Framework Convention on Climate Change: UNFCCC)」の名称が示しているように、「気候変動問題(Climate Change)」の方が適切である。温暖化の影響には徐々に進行する被害の他に、ある臨界点に達すると急激に、時には不連続さを伴いながら、発生する気候変動が推測されている。エコシステムは温室効果ガスの吸収源なのだが、ある時点以降には、排出源となってしまう。温暖化が進行すると、現在二酸化炭素の最大の吸収源の一つであるシベリアのツンドラが大量のメタンを排出する危険性がある。また、温暖化によって熱塩循環が停止し、ヨーロッパが寒冷化を迎える。欧州が高緯度であるにもかかわらず、温暖であるのは、メキシコ湾流のおかげである。しかし、温暖化により北極圏の氷が溶けると、塩分濃度が低下し、密度の大きいメキシコ湾流の上に覆い被さり、暖流としての流れを止めてしまう。さらに、南極およびグリーンランドの氷床崩壊による大幅な海面上昇もそうした現象の一つである。第4次報告書によれば、今後100年間で発生する可能性は極めて低いけれども、万が一にでも起きれば、コストを度外視しても対処できない。

 不確実なことだらけの中で、地球が温暖化していることと大気中における二酸化炭素などの温室効果ガスの濃度が大きくなっていることの二点は確認されている。しかし、その因果関係については、学説が分かれている。IPCCを始めとする主流派は、人間の活動によって大気中の温室効果ガスが増したために地球が温暖化していると主張している。他方、非主流派は何らかの原因によって地球が温暖化し、地中や海水中に閉じこめられていた二酸化炭素が放出されて増加したと反論する。因果関係における原因と結果がお互いに正反対となっている。地球の歴史を研究してみると、両者いずれの場合だけでなく、複合的なケースも見られ、どちらが原因で結果なのかを決定するのは難しい。第一、大気中の温室効果ガスの濃度がどれだけ増加すれば、気温は何度上昇するのかも正確にはわかっていない。主流派も非主流派も科学に立脚している。善と悪ではなく、どちらも自身を善と信じているものたち同士の戦いである。

 地球温暖化をめぐる科学的対立はこれだけではない。温室効果ガス発生から被害に至るまでの各段階で不確実性があり、場合によっては、議論が真っ向からぶつかっている。また、人間活動が温室効果ガスを排出しているとしても、経済を完全に制御することは不可能である。産業構造の変化や技術革新を予測することは難しい。種の多様性といった生態系の問題や気候変動に伴う第一次産品をめぐる状況、水問題、経済的・地域的格差、健康への影響など考慮しなければならない要素は山ほどある。さらに、それらが累積や急変、不連続などとして生じる場合をどう考えるのかも忘れるわけにはいかない。

 科学はある条件下での因果関係や過程を導き出す。条件が変更されれば、結果もおのずと変わる。科学は無条件的に絶対的な正答を示すことはない。これしかないと指し示すのが科学の役割ではない。こうも言えるし、ああも言えるという選択肢を残すチャランポランさが科学にはある。森毅を見るがよい。選択肢を残すのが科学であって、その点を批難するとしたら、それは素朴かつ短絡的であり、有害でさえある。多くの社会的・人工的・自然的現象は非線形であり、初期値敏感性がある以上、未来予測が不安定となるどころか、因果関係の立証自体が不可能に近い。しかも、不可逆性がある。不可知論は理論的なレベルだけならば問題はない。しかし、どの説が正しいかを白黒はっきりつけるよりも、どうすれば適切かを考察する手がかりを提供するのが今日の科学的姿勢である。地球温暖化は将来の問題であり、対策には巨額なコストがかかるので、どの説が正しくてもそのときに対処できるように、できるだけ選択肢を残しておくほうが有効である。それが「予防原則(Precautionary principle)」である。

 この予防原則には、微妙に修正された反論が加えられている。まず、アメリカから「後悔しない対策(no regret policy)」が主張されている。不確実性があるのだから、温暖化による悪影響がなかったとしても、費用便益面から実行した方がよいと思われる政策を実現すべきだという考えである。また、将来、技術革新が進むはずであるから、原価償却する前の今よりも、償却後に資本整備を更新した方が対策コストの低下が見こめるという意見もある。しかし、予防原則は選択肢をできるだけ残し、将来に備えるのが目的であって、それら二つは狭めている。

 現時点の見通しは正しいとして、とにかく地球温暖化を速やかに解決しなければならないと国債を大量発行して国家予算の大半をそれにつぎこむと、万が一その予測が外れた場合、軌道修正するだけの余力がなくなる。逆に、当たらないこともあるのだからと高をくくって、不十分な対策費しか使わなかったばら、損害発生後に莫大なコストを費やさなければならず、他に予算を回す余裕がなくなる危険性もある。時分時を見定めることが何より肝要で、極端な悲観主義も、極端な楽観主義も建設的な問題解決にはつながらない。IPCCも、1990年以来、最新のデータを分析した報告書を定期的に表わし、20071月に第4次報告書を公表している。現段階で適正と思われるコストを費やした対処法を実施して、有効な技術革新や科学的知見、産業政策を活用しつつ、つねに最悪の事態を回避し、将来の対策の選択肢をできる限り残す冷静な判断がこの問題には不可欠である、

 こうした問題である以上、当然ながら、将来の予測も多数用意されている。IPCCも、排出シナリオ特別報告において、相当幅がある六つのシナリオを示している。将来の社会構造の相違をA1A2B1B2の四つのファミリーに分け、その中でもA1をさらにA1FIA1BA1Tの三つに分類している。A1ファミリーは高成長・技術革新・地域間格差の縮小を特徴とする社会、A2は多元的・地域の独自性・高い人口増加率を特徴とする社会、B1は持続可能性・地域間格差解消・サービスや情報を特徴とする社会、B2は経済、社会、環境面で持続可能性に配慮するために地域対策を重視する社会である。A1ファミリーは、化石燃料集約型のA1FI、非化石燃料依存型のA1T、その中間型のA1Bに細分される。その上で、それぞれのモデルに特設の対策をしないベースライン・シナリオと安定化シナリオがある。

 ジョージ・W・ブッシュ政権が化石燃料依存を軽減するために打ち出したトウモロコシによるバイオ燃料の政策は、世界経済混乱の一因となっている。チャンスと見た投機資金が市場に流れこんだ結果、トウモロコシ価格が急騰し、バイオエタノールのコストを押し上げ、この新たなビジネスを危うくしている。さらに、畜産用の餌の高騰につながり、国内外の農家の経営を圧迫する。ある政策が実施されれば、それが他にも影響を与えるため、急激にではなく、情勢を見極めつつ、少しずつ舵を切るほうが賢明である。非線形の世界を生きるには慎重で冷静な判断が不可欠である。層流がいつ乱流に変わってしまうかわからない。

 エコロジー・ポリティクスは、このように、イデオロギー・ポリティクスやアイデンティティ・ポリティクスの認識とまったく違う前提に立っている。この変化に思考が追いついていっていない。

 

4 Ship Arriving Too Late To Save A Drowning Witch

 気候変動問題は極めて複雑であり、つねに発見の連続である。科学リテラシーを始めとする各種のリテラシーはもちろんのこと、国際交渉に代表されるきめ細やかで粘り強いコミュニケーションも求められる。地球温暖化のように、非線形性と不可逆性のある問題に対しては、ロマンスに登場する超人的な人物による力ずくの解決などできない。ロマンスは答えが一つである世界でしか機能し得ない。エコロジー・ポリティクスに、ロマンスはお手上げである。20世紀は科学が因果関係を明確化し、確定する実績を次々に上げていったのであり、それがロマンスの優勢になる背景でもある。ロマンスの主人公はあっという間に問題を解決するが、急激な変化こそ現代では予測不可能な新たな問題を招く。何が原因で、何が結果なのかも不明なままに、ロマンスの主人公が登場したところで、はっきり言って、引っかき回すだけである。

 地球温暖化は極端な例ではない。今の社会では、程度の差こそあれ、こうした唯一の正答のない問題に溢れている。役所の情報公開みたいに、公共的な利害関係の調整がほとんどないため、やる気のある首長が決断すれば、比較的すぐに解決する問題もある。しかし、それは少数に属する。

 ブッシュ政権はとかく不確実性を無視して、素朴なロマンスを描き、願望充足の政策を実施している。政策は、残念ながら、オブジェクト指向というわけにはいかない。2007年夏から表面化したサブプライム・ローン問題は、世界的な不況の直接的な引き金となったが、それにはアメリカの住宅バブルだけでなく、ブッシュ政権の極端な単独行動主義が原因の根本にある。甘い見通しで開戦したアフガン戦争ならびにお為ごかしのイラク戦争は泥沼化し、莫大な戦費のため、慢性的なドル安が続く。開戦に賛成した人も反対した人も、地球温暖化同様、被害を被る。ブッシュ政権は、戦前の日本の政府や軍部と同様、「すべて願望的思考のみで事態を判断するシンドローム」(御厨貴『日米開戦と総力戦体制』)に陥っている。この状況下、一度、市場に不安感が生まれると、ドル立ての投資家は損益を恐れて、資金を引き揚げ、先物市場へとそれを回す。投機マネーはエネルギーや穀物の価格を給湯させ、それはスタグフレーションと言ってよい状況をもたらす。

 「スタグフレーション(Stagflation)」は「停滞」を意味する「スタグネーション(Stagnation)」と「インフレーション(Inflation)」を合成した造語である。簡単に言うと、生産の減少などの経済活動の停滞と物価の上昇が併存する状態を指す。1973年に起きた第一次オイル・ショックが最初のスタグフレーションである。第4次中東戦争の際、OPECのアラブ諸国が原油公示価格の21%引き上げ、原油生産量の削減、イスラエル支援国への禁輸を決定します。さらに、12月には,翌19741月から原油価格を2倍に引き上げると発表する。これをきっかけに、経済活動は停滞に陥り、物価は高騰し続けまる。その状況を福田赳夫大蔵大臣は「狂乱物価」と命名している。

 スタグフレーションには、社会の石油への依存が進んだ結果、生まれた現象だとも言える。石油は、労働や資本と同様の生産要素であると同時に、最終財という二面性がある。石油はプラスチックや電力となって間接的に購買されたり、自動車や暖房の燃料として直接的に購入されたりする。原油価格の高騰は。限界費用を上げるため、総供給曲線を上昇させ、所得効果を通じて総需要曲線を下降させる。原油価格の急激な高騰は景気後退とインフレを同時に進行させてしまう。

 オイル・ショックの70年代と今とでは多くの点で状況が違っている。原油価格の高騰にOPEC諸国の石油政策が必ずしも影響しているわけではない。けれども、石油依存の社会は依然として続いていることは確かである。それは、言うまでもなく、地球温暖化問題とも深くつながっている。今日、最も重要なキーワードである「持続可能性」は、1980年に国際自然保護連合(IUCN)や国連環境計画(UNEP)などが提出した「世界保全戦略」に初出している。70年代の経験を経て、それは国際社会が共有すべき理念として徐々に浸透している。始末がいい「循環型社会(Waste Management)」はその派生系である。

 そうこうしているうちに、912日からニューヨークの原油先物取引において、1バーレル=100ドルをきり始める。7月につけた史上最高値の147ドルからわずか2ヶ月間で3割も下落したことになる。世界的な景気の減退と人々の省エネ・節約への関心の高まりにより、投機マネーが原油の先物取引から引き揚げている。しかし、リーマン・ブラザーズの経営破綻やバンク・オブ・アメリカによるメリルリンチの買収、連邦政府の管理下でのAIGの再建が示している通り、金融危機と景気後退がドル暴落に結びつき、世界経済が危機的状況に陥る危険性が消えたわけではない。

 サブプライム・ローン問題は経済におけるアメリカの時代の終焉を印象付けている。世界各国は、旺盛な購買力を背景にああメリカ市場へ商品を輸出し、その消費によって世界経済は潤う。ところが、今回の不況で、アメリカの消費者は物を買わなくなっている。買物をしなくても、結構、生活できるものだと気づき、いささか肥満体のアメリカ市場もダイエットし始めている。ここのところの世界経済は中国の製造業によって牽引されている部分も少なくなかったが、北京オリンピック後、上海市場の平均株価は低落、物価は上昇するなど景気は減速している。中国は外需依存から脱却するべき時期に来ている。このように、世界経済のモデルが変容しつある。

 アメリカのことばかりも言っていられない。1998年以来10年連続して自殺者は3万人を超え、死亡原因のワーストである。2007年、内閣府は、自殺対策白書で、「自殺を個人の問題ととらえていた」と過去の方針を反省し、政策転換を決断している。自殺対策支援センターのライフリンクは、04年から06年の自殺者97000人を詳細に分類している。全国の警察署館内別や市区町村別で自殺者数を挙げ、原因・動機・職業別などに分けた自殺実態白書を087月に公表している。この重い現実と比べて、日本のロマンスはあまりにも物足りない。

 こういった最近の社会はロマンス的認識で捉えることは困難である。非線形性と不可逆性を前提に入れて認識・考察する必要がある。激しい変化と流入してくる膨大な情報量に対処するために、諷刺が適切である、しかし、そうしたアナトミー執筆には体系的・総合的知識・認識が不可欠である。思いこみや思いつきだけで書けるものではない。環境問題が国際社会において最重要課題となっている今日、「環境文学」あるいは「エコ小説」と呼ぶべき新たな文学が登場するだろう。それはアナトミーによる持続可能社会を表象する「持続可能小説(Sustainable Novel)」の一種であるに違いない。文学は今までに経験したことのない事態に直面しているという自覚がない。もう一つの世界を描けば社会批判につながる時代ではない。非線形性や不可逆性の複雑さをそのままにアナトミーは体現できる。

 アナトミーは四つのジャンルで最も捉えがたいが、それは構成や知識の面だけではない。アナトミーの人物描写は近代小説やロマンスと異なっている。対象を再現するのではなく、記号化する。問われるポイントは正しさではなくて、社会的な共通理解に基づく適切さである。それは、言ってみれば、似顔絵を描く作業に似ている。対象を一生懸命再現しても、似てないと感じられることは少なくない。似顔絵アーティストの小河原智子によると、似顔絵で最も重要なのは耳や目、口などのパーツの形ではなく、配置である。似ているか似ていないかは、その配置をどうするかにかかっているので、それらをいくつかの基本形に分類しておく。その上で、各パーツや輪郭、髪型なども基本形に分類してそれぞれを組み合せ、印象や特徴に応じてデフォルメを加える。似顔絵制作には解剖学と認知心理学の認識を必要とする。そこでは正しさではなく、適切さが肝心となり、それはアナトミーの場合と共通している。アナトミーと違い、近代小説やロマンスでは人物描写に適切さではなく、正しさが追及される。ただ、前者が客観的正しさであるのに対し、後者は主観的正しさである。似顔絵では、眼鏡のツルが省かれる場合もあるが、それは描いてしまうと、視点が顔の外側にいってしまい、印象が違ってしまうからである。対象をじーっと見つめていると、見れば見るほど、タイプがわからなくなってしまうこともしばしば起こる。その際には、目を細め、視力を落として、対象に向かうこと効果的である。似顔絵はあくまでも印象によって左右されるので、細部ではなく、大まかに特徴をつかむのが大切だからである。似顔絵制作には、社会的知性あるいはソーシャル・インテリジェンスがなくてはならないのであり、それはアナトミーでも同様である。

 もっとも、似顔絵だけではない。映画は多くがメロドラマであるが、その製作過程は、CGの制作現場が示している通り、アナトミーである。今日の表現活動には、アナトミー的認識が不可欠である。

 先の例示の通り、アナトミーは、要約するのが困難であったり、何を言いたいのかつかめなかったり、筋の面白さが二の次とされていたりするため、一般的な読者にとって、「小説」と呼ぶのに躊躇する作品であることが多い。世界的に、アナトミーの系譜は、細々とであるが、しかし強烈な存在感を漂わせながら、続いている。思想小説や1930年代のプロレタリア小説もそれに含まれる。前者は18世紀の啓蒙の文学につらなるものであると容易に推察できる。後者において、登場人物は個性や性格ではなく、何らかの社会的な記号として扱われ、そこで重要なのはベルトルト・ブレヒトの言う「社会的動作」である。複合型も含めると、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を始めとして、ゼーレン・キルケゴールの『あれかこれか』、トマス・カーライルの『衣装哲学』、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、オルダス・ハクスレーの『素晴らしき世界』、ジョージ・オーウェルの『1984』、ジェイムズジョイスの『ユリシーズ』ならびに『フィネガンズ・ウェイク』、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』、ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』、ジョーゼフ・へラーの『キャッチ=22』、トマス・ピンチョンの『重力の虹』など異彩を放つ作品が目白押しである。それらはグレン・グールドのピアノやフランク・ザッパの曲を思い起こさせる。他方、近代日本文学では、アナトミーの系譜は非常に貧弱である。花田清輝や寺山修司、大西巨人、清水義範の諸作品などに見られる程度である。しかし、ワーキングプア問題の深刻化に伴い、小林多喜二の『蟹工船』を代表とするプロレタリア文学が復活している。若い労働者たちが連帯し、立ち上がり始めている。今の時代にはロマンスではなく、アナトミーが必要だという流れが生まれている。ところが、作家も編集者も読者も、著しく「社会的動作」に対する読解力が弱い。ザ・ニュースペーパーの社会諷刺コントに学ぶ余地が大いにあるだろう。

 持続可能小説は、必ずしも、登場してはいない。それはまだ見ぬ文学である。現段階で最高のアナトミーはIPCCの報告書だとも言える。地球温暖化が通世代間問題であるように、今、すべきなのは、持続可能小説が生まれてくるように、適切な振る舞いをすることである。

 

 「本当のリアリティというのは、ある人物を描いたら、あとからそういう人間が輩出するというようなのが、本当のリアリティだと思うんですよね」。

(黒澤明)

〈了〉

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